「行政監視に関する荒井・竹田説」ー竹田説が最重要な哲学思想
・竹田青嗣『哲学ってなんだ 自分と社会を知る』岩波書店
・著者は、著名な哲学者で早稲田大学名誉教授
・参議院行政監視委員会の客員調査員(2009年~2010年)として「近代市民国家の基本理念等の社会思想」について調査室の職員に講義をされており、次のように述べておられます。「今の政治の最重要課題は、政治制度をいかに一般意志をよく表現するようなシステムへと改変できるかなので、行政監視研究会の活動がどれだけ長く続き、多くの志ある人を育てられるかは本当に大事なことです。」
荒井達夫は、「行政監視」は公共の利益(=全国民に共通する社会一般の利益)の実現という観点で行うべきであると主張しています。このような「行政監視」の観点に関する発想の原点は、竹田青嗣氏の思想にあります。本書で書かれているルソーの社会契約説の解説(竹田説)で、ご本人は異端と言われていると言っておられるのですが、私は三十数年に及ぶ公務員としての経験、その実体験と専門知識から、竹田説が完全に正しいと考えています(※1)。また、「行政監視」は国民主権(主権は国民全体にある)を支える仕組みであり、このことを徹底するためには全ての国民が平等の条件で政治に参加できる制度(選挙制度)が不可欠です(※2)。この論理も竹田説から導くことができます。
※1 2016.2.17参議院憲法審査会 荒井達夫参考人発言PDFファイルを表示
※2 2019.11.9参議院憲法審査会 西田実仁議員発言PDFファイルを表示
「行政監視」は、公務員の働きぶりを見張ることで、民主主義社会をより円滑に機能させる重要な仕組みです。その意味で、民主主義思想の基礎をなす社会契約説と密接に関連していますが、私はルソーの社会契約説そのものに深い関心を持ったのではなく、公務員法制のあり方を考える過程で、「行政監視」を支える哲学思想として竹田説の重大性に気が付いたのです。それは、竹田説が現代の民主主義の原理(民主主義の根本的な考え方や仕組み)を解説するうえで極めて重要であるということです。「行政監視」のために必読である箇所は本の80頁から89頁までの10頁で、私はこれを繰り返し読み、深く考えました。何よりも、社会契約説(特に「一般意志」)と現行法制(憲法、行政法、特に公務員法)の関係(※1)、そして法を誠実に執行することの意味(※2)を考えるに当たって竹田説は非常に参考になったのです。
※1 千葉経済大学2024政治学Ⅱ 授業資料PDFファイルを表示
※2 2017.12.5参議院財政金融委員会 風間直樹議員発言PDFファイルを表示
民主主義の原理に基づき、公務員は、国民が定めた憲法と公務員法によって創設され、法の執行を仕事としています。そして、公務員は、公共の利益(=全国民に共通する社会一般の利益)のために全力で働き、法を執行することによってのみ、真の全体の奉仕者と言えます(※)。その状態を確保するためには、「行政監視=法律執行の監視」が不可欠であると荒井達夫は考えます。
※日本国憲法
前文
日本国民は、・・・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
② すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
※国家公務員法
(服務の根本基準)
第96条 すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。
※国家公務員・宣誓書PDFファイルを表示
この思想的土台となったのが、竹田説による「一般意志」の説明でした。民主主義社会とはルールに基づく社会である。また、主権は国民全体にあり、国民全体の意志である「一般意志」は公共の利益(=全国民に共通する社会一般の利益)のみを目指す。その結果、公務員により構成される政府と官僚機構は、社会の基本ルールである憲法・公務員法に反し、「一般意志」を代表していない場合、正当性を持たない。私は竹田説(※)を根拠にそう考えたのです。これは、省ぐるみで公文書の改ざんが行われる場合を考えれば、容易に納得できると思います。内閣の第一の仕事は、「法律を誠実に執行すること」(憲法第73条第1号)であり、公文書の改ざんは、主権者国民にとって、法律の執行という点で最も許されない不誠実な行政の行為、「一般意志」並びに公共の利益に反する最悪の公務員不祥事です。当然、そのような政府と官僚機構は正当性を持たないと言えるでしょう。「行政監視=法律執行の監視」が必要となる典型例です。竹田青嗣氏に参議院行政監視委員会の客員調査員を委嘱した理由は、このような思考を確認し深めるためであり、調査室職員に対する講義も極めて有益な内容でした。また、この講義が契機となって「行政監視」の理論研究が進み、後に「行政監視に関する荒井・竹田説」と命名する学説が誕生することになりました。
※竹田青嗣『哲学ってなんだ 自分と社会を知る』85~86頁を参照
※竹田青嗣『キャリアシステムについてのコメント』立法と調査 2008.11 別冊
「行政監視」のためには、250年以上前の政治哲学であるルソーの社会契約説を詳しく知る必要は全くありません。それよりも、竹田説と現行法制の関係を理解することの方が、はるかに重要です。ルソー以来、長らく立法権にのみ注目し、行政権の監視について研究を怠ってきた民主主義論を、この国の政治行政の正常化のために未来に向けて大きく前進させる必要があるからです。この点を理解できず、ルソーの社会契約説の知識に異様にこだわり、自身の思想を「行政監視」を支える中心哲学とひどく誤解している哲学者(武田康弘・白樺教育館館長)がいるため、特に強調しておきます。「行政監視」の理論研究において、武田康弘氏が中心的な役割を果たしたという事実はありません。当前のことですが、国会の実務家(議員と職員)が考慮すべきなのは、社会契約説の現代的な意義であり、ルソーが当時の困難な社会状況の中でどのように考えたかを教わっても役に立ちません。行政監視委員会調査室における武田康弘氏の講義(日本国憲法の哲学的土台)に対しては、期待外れであり、明確に不満(「行政監視」とは程遠い、場違いの話)を述べる調査員がおりました。「行政監視」において古典にこだわることは無意味であり、特に忙しい国会の実務家にとってはなおさらです。また、私は竹田説に出会った後、『ルソー 社会契約論/ジュネーヴ草稿』中山元訳(光文社)を読みましたが、「行政監視」に関しては有益な知見を得ることができませんでした。古典としての教養以上の意味はなく、現代の「行政監視」には不要であることが良く分かりました。
ルソーの社会契約説を詳しく知っていても、それと現行法制との関係を明確に説明できなければ、国会の実務である「行政監視=法律執行の監視」において意味がありません。「行政監視」は、公務員に法のルールを守らせるための仕組みだからです。その意味で「行政監視」にとって重要なのは、ルソーの社会契約説そのものではなく、竹田説です。また、ルソーの社会契約説の解釈論として竹田説を考えるのではなく、「行政監視」の理論研究として竹田説を考えます。したがって、ルソーの解釈学とは関係なく、竹田説が異端かどうかも問題になりません。国会論議では、社会契約説の考え方が現代の問題である「行政監視」に具体的にどう生かせるかが問われます。竹田青嗣氏は著名な哲学者であり、その民主主義思想が「行政監視」の理論的説明に大いに役立つことが「行政監視」のプロフェッショナルである荒井達夫によって論証されているのですから、国会論議にはそれで必要十分と言えます。一方、古典にこだわり、誤情報の発信を繰り返す武田康弘氏の思想が、「行政監視」を支える中心哲学になることはあり得ません。言うまでもなく、250年以上前の古典であるルソーの社会契約説について、誰がどれほど知らないかを問題にしても、他者非難の自慢話にしかならず、有意義な議論にはなりません。また、武田康弘氏の思想では、竹田説のような民主主義の原理(民主主義の根本的な考え方や仕組み)の解説がなく、現行法制との関係が明確にならないため、哲学的な抽象論にとどまり、「行政監視と二院制、参議院の役割とは何か」につながる生産的な議論に発展せず、未来を切り開く国会論議(合理的な具体策を伴う改革論)には貢献しないからです。民主主義の原理を明解に解説することが、「行政監視」の理論研究には不可欠です。
また、公務員の存在意義である「公共の利益」(国家公務員法第96条)について著名な公共哲学者の方々と議論もしてきましたが、肝心要の公務員法について彼らは全く理解していませんでした。公務員が憲法と公務員法という法のルールにより作り出された存在であることさえ、深く認識せずに自説を述べていたように感じました。哲学が現実の公務(=法の執行)に役立っていない原因として、現行法制に関する知識の欠如を垣間見た気がします。結局、「一般意志」と現行法制の関係で明確に重要な示唆を得られたのは、民主主義社会におけるルールの重要性を強調する竹田青嗣氏のこの本だけだったのです。国会の実務家である私がかねてから疑問に思っていたのは、民主主義の哲学思想と現行法制の結節点がどこにあるかということでした。政治学や憲法学の専門書を読んでも一向に分からず、長年の謎だったのですが、それが竹田説により解明されたのです。民主主義社会は、民主主義法制という法のルールにより運営される社会であり、竹田説はその原理を説明しています。竹田説とは、竹田青嗣氏がルソーの社会契約説を用いて、民主主義の原理(民主主義の根本的な考え方や仕組み)を簡明に解説したもので、民主主義法制の典型である日本国憲法や国家公務員法に直接つながる現代版社会契約説であると私は理解しています。私が竹田説が完全に正しいと考えるのはそのためです。
要するに、ルソーの社会契約説から離れ、異端とされる竹田説が「行政監視」の思想的土台となる最重要な哲学思想であり、「行政監視」の理論研究の中心には民主主義の原理を解説する竹田説があると言えます。これに基づき、荒井達夫は憲法的視点から「行政監視」の理論と制度の構築を試みています。我が国初の「行政監視」に関する本格的な理論研究と言えるでしょう。世界初と言えるかもしれません。剽窃を防止するため、竹田青嗣氏の同意を得て新学説を「行政監視に関する荒井・竹田説」と命名します。これは、参議院の役割とは何かの議論に根本的な見直しを迫る考え方です。民主主義の原理(竹田説)に基づいて、「行政監視」の意味(荒井説)を考えることで、「行政監視」を参議院の役割として捉え、選挙制度の議論につなげる体系的な説明が可能になります。従来の学説にはない、国会の実務を踏まえた画期的な考え方です。その手法は、政治行政の現実を直視し、法制度のあるべき姿を憲法の原理・原則に則って論理的に考えるという、基本に忠実な、とてもシンプルなものです。私は、「行政監視に関する荒井・竹田説」が参議院改革についての議論の混迷を解消し、この国の政治行政の正常化に大きく貢献すると考えています。
なお、竹田説については、山下栄一参議院行政監視委員長が非常に強い関心を示し、当時、行政監視委員会の客員調査員であった竹田青嗣氏と二度にわたり、長時間の意見交換の機会を持ち、その後も親しく交流を続けたことを付言しておきます。「行政監視は、主権在民、党派を超えて」という山下氏の言葉は、「一般意志」の重要性を強調する竹田説と思想的に通底しています。「行政監視」が国会の実務であり、新しい学問分野が国会の議員と職員により切り開かれつつあることを感じた印象的な出来事でした。
「行政監視」に関する学者による研究が全く深まらず、そもそも行政監視とは何かという基本の議論さえまともにできていないのは、「行政監視」が国会の実務であることに加えて、このような原理的思考の欠如(→「行政監視にはいろいろな意味がある」との発想)も原因の一つではないか、と私は考えています。「本当に必要な行政の監視とは何か」という本質的な疑問が出てこない状況に学説はあると思うのです。二院制と行政府の監視をテーマにした学術書を見ても、そのことを強く感じます。民主主義の原理に基づいて政治行政の問題の本質を洞察するという思考が必要であり、これが本来、学者が持つべき思考だと考えます。しかし、最近の参議院改革協議会における学者の発言を見ても、それは確認できませんでした。今日、省ぐるみの公文書改ざんという行政の危機的状況において、学者(政治学、行政学、憲法学)の思考もまた危機的状況にあると言わざるを得ません。
行政監視とは何かの議論は、国の統治機構はどうあるべきかの議論に直結します。そして、この国のあるべき姿の議論につながります。その場合、議論の前提として人と社会と国家の関係、主権が民にあることの意味、ルールの重要性と自由の相互承認等を知っておくことが非常に重要であり、この本が他では得られない有益な情報を提供してくれると私は確信しています。「行政監視」に関心のある皆様(特に学者)には、是非、竹田青嗣『哲学ってなんだ 自分と社会を知る』を一読されることをお勧めします。